昭和49年01月15日 朝の御理解
御理解 第55節
「賃を取ってする仕事は、若い時には頼んでもくれるが、年をとっては頼んでくれぬ。信心は、年が寄るほど位がつくものじゃ。信心をすれば一年一年有難うなってくる。」
信心は年が寄るほど位がつくものじゃ。果して信心をさせてただ参っております、拝んでおりますと云うのが、何十年続いたからと云うて、位らしい位も受けていないと云う人が沢山ある事を私は知っています。ですから一年一年というから、年をとっていくほどに、位がつくような信心とは、どういう信心をさせて頂いたら位がつくだろうか。又最後に、一年一年有難うなってくると仰るが、結局位がついていっておると言う事は、一年一年有難うなっていくと言う事なんだ。
一年一年有難うなってくると言う事は、どう言う事か。信心は結論すると有り難くならせて頂く稽古だと合楽では、はっきり皆さんにも申しておりますようにです。有り難くなっていっておるなら、私はそれでいいと思う。けれども有り難くなっていないとするならば、ここへ一つ猛反省をしなければいけない。これは自分の信心の進め方と云うものは、間違い。おかげを受けておるから、信心を続けておるというだけではいけん。一年一年有難うなっていかなければならん。
夕べも日田の支部の共励会から、皆さん帰ってきて最後まで、文男先生と高橋さんが、丁度今朝三時までお話しておった。二人がほらもう三十分しか休まれん。ちょっと横になりなさいと云うていたんですけれども。その三時迄です。兎に角有難うならせて頂く為には、こういう信心もせにゃんいかんばい、こういうあり方にならにゃいかんよと云う話ばっかりで終始致しました。
その中にこう言う様なお話をさせて貰った。先日息子さんの大学受験のお届けがあった。そしてまぁ何と申しますかね。今は大学が中々お金がかかる。ただ誰でもが表向きにも掛るけれども、裏口からも矢張り相当のお金を使わなければ入られないと。ですからそういう金を人の方に使わずに、神様の方へ使おうと発心されたお母さんが。それで普通では出来ない様なお供えをして、受験の事のお願いをなさった。
私はそれをお取次ぎさせて頂いておりましたら、私の心眼に頂くのが昔はどこの家にでもありましたよね。高い所へ上がる為には踏み継ぎなんです、段が一つ二つついた踏み継ぎがある。その上に子供の頭の上に何ですか、月経樹で作った様な頭にこうはめる、冠ですね月桂冠です。あれをはめようとするけれども、手が届かんなおる。そしたらお供えをされてお取次ぎを願われたらすっとその段が現れてね、その段の上に上がられたら上から被せられる御神眼を頂いた。
ははぁ今度は入学の栄誉というかを勝ち取られる事が出来るなぁと私は思うた。次には、親子丼の美味しそぅな親子丼を頂いた。是は親子がままになると言う事だなと思うた。子供の願いがそのまま親の願い。子供がどぅでもこの大学に入りたいとこう言う。やっぱり子供がそう言やぁ、親もどぅでもそういうその大学にどうでもこうでも通るごたおかげを頂きたいというのが親の願いなんだ。だから親も子もままになると言う事だと思うた。親子丼のお知らせ。
同時にです人間に丼を廻すよりも、神様に丼を廻した事がこんなにも効くぞと言う事を、教えて頂いた感じが致しました。どうですか皆さん。愈々どうでもおかげを頂かんなん時には、神様の方に丼を廻さにゃ駄目です。これは福岡の吉木先生ですね。三代の吉木辰次郎先生が、いつもお話しなっておったですけれども、もう愈々命がないと云う時に、自分の預金通帳から、自分の持ち物着物までも売り払ってしまって、親教会とご本部へ最後のお願いをなさった。
それからおかげを受けられ、桜井先生あたりはこの話を随分聞いておられる話ですね。これなんかは神様へ丼を廻しなさった訳です。だからこの神様ちゃいい加減な人じゃな、丼が効く神様というと何か大変、聞こえが悪いですけれども。やっぱり丼が効くと云う事です。皆さん愈々どうでもという時にはです、そういう思いきった事も、有り難いと同時にです。私は今日は皆さんに一年一年有難うなって行く為の手立てと言うものは色々あります。昨日私が文男先生達に話したのは、とにかく金光様の信心ちゃ真心ばい。とにかく実意になる以外にはないばい。先日から私がある御霊さんのお祭りをさせて頂いた時の話しをさせて貰った。もうほんな一押しと言う所で、真が欠けたらねはぁ良かったっちゃ云うけども喜びは受けられない、真心を押して押して最後まで押し切る。そりゃ難しい事じゃ一つもない。
例えて云うならば、甘な辛な御霊さまがお好きじゃったから、お好きじゃった様なものを真心込めてお供えしたいと思う。お酒もお好きじゃった煙草もお好きじゃった。甘い物もお好きじゃったと云うてお供えをさせて頂いた。甘い物がお好きじゃったから饅頭を買いに云ったけれども、饅頭屋の饅頭がまだ二時間しなきゃ出来んち言う。それで帰ってきた。そして帰りがけにご信者さんに頼んできた。お宅の息子さんに自動車でちょっと、二時間ばっかりして持って来て貰えんでしょうかち。
所がやっぱり信者さん同士だもんだから、いやちゃ云われんで請け負うた。所が息子さんな忙しかから出来んからお母さんが来た。そうにゃあんた迷惑かけたのうと私が云うた。そういう時がね例えば二時間してからまた行ったらいいじゃないか。もし無かったら久留米まっでん行ったらいいじゃないか。甘い物がお好きじゃったから。真心と云うものはその位な事じゃから難しいこっじゃないでしょうが。
そこにです期せずして心の中に、神様が喜んで下さりよるなぁ、御霊様が喜んで下さりよるなぁと云う、喜びが湧かんような打ち込み方じゃ駄目だ。折角打ち込むならば、喜びが返ってくるような打ち込み方をしなきゃいかん。それはどこまでも実意だと私は思うた。真心だとこう思う。そこにですどこから湧いてくるか解らん喜びが頂ける。そう言う喜びが積り積もって一年一年有難うなってくるのだ。真心だ。
同時に今私が申しました。人に丼を廻すのじゃなくて神様の方へ、思いきった丼でも廻すようなその心にです。親子共々ままになると言う様なおかげだけではなくて、それは成程自分が背が高くなった訳ではないけれど、一段も二段もその為に高められる事が出来る。だから今まで見えなかった所が見えてくる。今まで受けられなかったおかげが受けられて来る。それだけ視野が広うなってくる。そのおかげが有り難い。今まで見えなかった所が見えて来るから有り難くならない筈がない。
だから信心には有難うならせて頂く、手立てと云うものが色々ある所をです。お互いが工夫して、又はみ教えを頂いてそれに即応して、有り難くならせて頂く為ならば、手段を選ばないと、私は云うていいと思うですね。有り難くならせて頂く事ならばです、手段を選ばない。お金を儲ける為なら手段を選ばないという人がある。私どもはそういうのを金銭の亡者と云うならばです、私どもは本気で一つ徳の亡者にならにゃいけん。
お徳を受けられることの為なら、有り難くならせて頂くことの為ならば、敢えてどげな事でも辞せないと云う信心なんです。そして一段も二段もおかげで飛躍した位を頂くということが出来る訳なんです。二段いっぺんに位を頂いた。ところが親子共々ままになるだけではなくて、位を頂いて二段も高くなったら、今まで見えなかったところが、どんどん見えてくるごとなってきた。その見える視野が広うなると云うことが有り難くなると云うことなんです。
昨夜はご祈念を、幹三郎が当番でした。ご祈念の後に皆さんにお話を聞いてもらっておる話、こういう話をしておりました。例えば、お食事をさせてもらう。そのお食事がね、楽しゅうて楽しゅうてこたえん。お昼の時間が、云はば、三度の食事がです。例えば、お昼なら、お昼の時間が待ち遠しいぐらいに待ち遠しい。ですから、そこに、どんなお粗末な食べ物であっても、それが楽しいのであり、それが美味しいのである。そしてそれが有り難いのである。
私はお食事を頂く時にです、楽しさが無いならば、美味しさが無いならば、有り難さが無いならば、あなたのお食事の頂き方は間違がってる。私はこのお食事の事だけでも、有り難いとか、楽しいとか美味しいと云うものを感じれる時には、あなたの信心は今間違いないところにあるんだけれども。美味しくもない不平が出る不足が出る、楽しさなどはなおさら無いという時には、あなたの信心は間違っておる時。いわば信心の一つのバロメ-タ-になるんだと云う話しをしてました。
はあぁ有り難いなぁ尊いことだなぁ。修行と言う事は尊いなと私は思うたです。彼この頃から断食を一週間致しました。いわゆる無期限の断食だったんですけれども、丁度一週間の終わったご祈念の済んでからお許しを頂いた。一週間目に頂くお粥さんと云うものがです。恐らくはそれもお粥さんの薄ういのを一杯しか食べさせません、断食した後は。これがお腹がかえって悪いですからね。
それで失敗する事がありますから。ですから恐らくは許されて、あくる日の朝食やら昼の昼食やらは、待ち遠しい事であっただろう楽しい事であっただろう。又は是がこんなにも美味しいと言う事を、初めて知ったと云う体験から私は生まれたお話だったと、昨日は思うんです。皆さんがいろんな修行を致します。例えば病気なら病気の修行をしておる。はぁほんとに病気をしておってです、初めて健康の時の有り難さがわかったと云うだけのものだったらね、必ずそれは健康になるに従って薄らいでくるです。
おかげを頂いた時だけは、本当に健康の有り難さがしみじみと感ずるけれども、健康になると咽喉元通れば熱さを忘れるで、段々いつの間にか忘れてくる。所がですその健康なら健康の有り難さと云うものを持続していく為に、それを信心のバロメーターだと云うふうな頂き方に、もう一歩前進した頂き方しておるとです。その事がいつまでもあいたこれは信心が可笑しいぞ緩んでいきよるぞ。あん時んごと有り難さが無いお食事でもそうです。断食した後の時にゃあんなに楽しかったあんなに美味しかった。
あんなに有り難かったのが、それこそ涙の出る程有り難かったのが、有り難くなって当たり前の様になる。それに美味しいの美味しくないのと云うて、不平不足ども出るごとなる様な事では、修行の値打ちは無い。その心が信心のバロメーターだと思う。有り難くならせて頂くと言う事は、そういう例えば修行をさせて貰う所から、そういう頂き方からです。いやが上にも一年一年、有り難うなって行く事が出来るのです。信心は年をとればとるほど位がつく。けれどもひとつも位がつきよらん。
ただダラダラとした信心をしておるだけだ。是じゃ有り難くなったり、有り難くならなかったりで、大した事は無いけれども、一年一年有難うなってくると云う印がです。自分の心の上にも感じられる。おかげの上にもハッキリと現れて来る。そういうおかげを頂いてこそ、初めて成るほど年をとるほど、年を重ねるほど位がつくという信心とは、こういう信心が内容でなからなければならないなと言う事が分かるでしょう。なんと云うても真心が要る。とにかく実意になる以外にはない。
こん位で良かろうち言う事はなか。あとは人にどん頼んどくち言う事じゃ、絶対有り難くなれん。頼んだ人が真心をもって嬉しゅう、有難う御用をさせて頂くというならまだええ。けれども忙しかけんで私が来ました。丁度その時に私がここで今度おかげの泉の、それこそ私は改めてまた感動した。あの元旦の時の教話を改めて聞かせて頂いた。とにかく有り難い。その方は熱心な方ですから本当云うたら、そげな御理解を頂きよんならば、はぁおかげ頂いたと云うて、聞いて帰ればまだ良かった私の心が済んだ。
所がそりゃやっぱ忙しいから、もう帰んなさった訳なんです。してみると今日の御用はしょうことなしでしちゃったばいなぁ。それが御霊様のお祭りに響く。それを折角これだけの金をかけてした、その値打ちがない。真心と云うものは、私は真心と云う事は、実意だと云うふうに申しますけれどもです。実意が底に現されてこそ信心であり、そういう信心からしか有り難いものは生まれて来ない。
それに今日は思いきった御理解でしたですけれども。一段も二段も所謂位がつく様なおかげを頂く為にはです。昔はですね金光教でも沢山お供えをするだけ位が上がりよったです。先生方の位というものは。そう言う事は金光教的じゃない云うので、それがなくなりましたけれどね。実を云うたらそれだけの勇猛心と云うか、実力を持っておるとするならばね、そりゃやっぱり位を上げるのがほんなこっじゃないかと、私は今日改めてそこんとこを思うんですよね。
そげなこつ云うなら金持っとるもんにゃよかろうばってん、金持たんもんにゃ出来んじゃないか。そんなこつはない同じ事だ。千円持っとる者が千円すりゃええじゃないか。百円持っとる者は百円すりゃええじゃないか。それだけの事なんだもん。それがただつぅ一杯のものであると言う事なんだ。問題は中に込められる元気な心と、そうでもしてからどうでも一つお縋りしようと云うそれなんだ。それはおかげだけではない。一段も二段も高められる位が、それによってつくと言う事がです。年を寄るほど位がつくものじゃと云うことになるのじゃないでしょうか。
一年一年有難うなって来る。お互いの信心のそれこそ幹三郎じゃないですけれども、お互いバロメーターと云うものがです、自分の心をいつも計って自分の信心は、今はこんなにグズグズしておるんだなとか。この調子を落さんで行かなきゃいけないなとか。こう言う所にたったこの位な事でです真心と云うものは、神様が受けて下さるんだな。受けて下さる証拠にこちらに喜びが湧いて来る。是はほんの些細な些細な事なんですけど。私は、風呂ん時に、洗い桶を二つ使うんです。
木桶を必ず二つ使う。両方にこう使うんです。ところが片一方の方のが最近漏りよるです。ですからそれを使い終わった時にです。その漏りよる方を私は必ず下に置く事に決めとるです二段重ねて。そすと皆が下んとは使わない。漏るだけがお粗末になる。私はそれに気づかせて頂いてね、漏る方ば上に置いとくと、上の方から使うでしょう、皆が。そすと漏る方を使う。漏る方を使うと言う事はそれだけお水がお粗末になる。だから私はわざわざでも下に入れ替えて。
漏る方を下にして漏らん方を上にこう置く事してるです。そればした途端にお勇みを頂きました。桶にカチーッとお勇みがついた。だからたったあの位な心づかいを、神様が喜んで下さるのならばです。必ずも億万の金ども持っとかじゃ信心が出来んちいう様なことでもなからなければです。金がかかると云うことでもないでしょうが。私はそれ以来です、本当、目が粗かったなと思てから、この頃西岡先生に、あんたが責任もってやってくれと云うて、ご祈念が済んだと同時にお手洗いの水を締めることに決めた。
そして朝あんたが出てきた時に、すぐあちらのお水を出すように、使うようにして下さいと云うて、改めさせて頂いた事ですけれども。たった風呂桶の漏るか漏らないか、その漏る方を使ったら、それしこ神様に対してお粗末になる、御無礼になると思うて、それを実行しただけで、お勇みがつくと言う位な神様が感動して、喜んで下さるしるしですからね、あれは。その感動がこちらへ伝わって来ない筈がない。その位に金光様の信心は見易いもの。見易いからと云うてです。
お供えが庭の塵までも神様は真がありゃ真で受けると仰るのですけれども。贅沢はこうしよってからお供えはちょこっとばっかり。そげなこっじゃったら億万の金をお供えしたっちゃそれは効きはせん。ですからこの辺の所は頂き違えない様にして頂いて、そん時そん時にです。はぁこりゃどうでもと言う様な時には、その位な欲を放す稽古をさせて頂くところからです。それこそ予期せず一段も二段も信心が高まってくる。
親子がままになるだけではなくてね、云はば一段も二段も一遍に飛躍する事が出来る。そこに視野が広うなると云う。有り難さが身についてくると言う様な訳であります。幹三郎が申しました。折角修行をさせて頂くならば、修行の後のおかげと云うものがです、ははぁ成る程お食事と云うものが、こんなにも素晴らしい楽しい美味しい有り難い、不平ども不足どんが出る筈はない。
もし出るとするならば、私の信心が今狂うておる時と思うて、この事を忘れずに是を信心の一つのバロメーターにでもしていこうと言う様な生き方で、信心修行させてもらわななきゃ、一年一年有難うなっていくと言う様な有り難さは頂かれん。やはり信心は話を聞くばかりが能じゃない。和賀心からも練り出すさにゃいかん。又は場合にはちょっとな様であるけれども、思いきった信心もさせてもらわなければいけないと言う事が分かります。そこから一年一年間違いなしに、有り難くなっていけると思うですね。
どうぞ。